葵〜永遠の約束〜


夕闇の中。
独りの少女が、荒れた屋敷の前に立っていた。

名を、葵と言う。

身に付けているのは粗末だが、清潔な着物。
貧しくとも、懸命に生きている様子が見て取れた。
その瞳には、聡明さが漂っている。
幼い少女は、大人の瞳を持っていた。

彼女は、この塀の向こうに住んでいる男に用があった。
けれど、勇気がなかなか出ない。
何しろ相手は、不思議な術を使い、狐の息子だと言われる男なのだ。
でも、この問題を解決できそうな人は他に知らない。
それに、彼、安倍晴明は、変わり者だと聞く。
何せ、広大な屋敷に、たった独りで住んでいるのだ。
普通、貴族というものは、使用人を何人も使っているものなのだが。

だが、今はそれがありがたい。
簡単に入り込めるのだから。

葵はそっと木戸を開け、塀の中に滑り込んだ。
うっそうと茂る背の高い草木の中を、数歩進んだとき、
「誰ですか。」
という静かな声がした。

怒っているような声ではなかったが、葵は文字通り飛び上がった。

「ひっ・・・!」
「ああ。子供ですか。どうしたんですか?」

葵の姿を見つけた声の主が、縁側におりてくる。

「どうして・・・。」
「わかったかって?あなた、糸を踏んだでしょう。」
「糸?」
「この屋敷の周りには、目に見えないほどの細い糸が張り巡らしてあるんです。
誰かが踏むと、家の中の鈴が鳴るようにしてあるんですよ。」

仕掛けを説明されて、何だ、と息を吐く。

「不思議な術を使ったと思いましたか?」

見透かされたように言われて、ぎくりとする。

「え・・・。」
「私はあやしい力を使う、狐の息子だそうですからね。」

自嘲したように呟く男を、改めてまじまじと見る。
その顔は、想像に反して、とても整っていた。
しかも、まだ若い。

「で、こんなところになんのご用ですか?」

子供に対してでも、丁寧に聞く彼に、少女は好感を持った。
この人なら、助けてくれるかもしれない。

「・・・お願いがあって参りました。」
「お願い・・・ですか?」
「はい。私の母を助けていただきたいんです。」
「母上を?」
「はい。母は・・・母は、鬼に狙われているのです。」
「鬼、ですか?」
「ええ。夜中、気付くと母がいないのです。
朝になると帰ってきているのですが、
自分が出歩いていたことなど覚えていないと言うのです。」
「それは・・・。」
「それに、最近は、怪我をして返ってくるんです。
ひどい怪我ではありませんが、
あざがいくつもできていて・・・。」
「それで、鬼の仕業だと?」
「覚えがないのに夜中に出てゆき、
怪我をして帰ってくるなど、
鬼の仕業としか思えません。
それで、不思議な術で鬼を退治するという貴方に助けていただこうと・・・。」
「そうでしたか。でも、困りましたね。」
「え?」
「私は、本当に、特別に不思議な力を持っているわけではありません。
ほんの少し、他の人より物事を知っているだけです。
すべてのことには、必ずなんらかの理由があります。
大抵の不思議なことは、ちゃんと説明がつくのです。
私は、それを明かそうとするだけ。
だから、あなたが、私に、なにか、不思議な術を使って、
母上を助けて欲しいと考えているのなら、
それは、期待はずれなんですよ。」

晴明の言葉に、葵は、少し考えてから、口を開いた。

「・・・あなたが、どんな人で、どんな力を持っているのかは知りませんが、
今まで、色々な事件を解決してこられたのは知っています。
たとえ、不思議 な術を使わなくても、私はあなたを信じます。
ですから、どうか、母を助け てください。」

言い募った少女に、晴明は、ふと、微笑んだ。

「あなたはいくつですか?」
「数えで十三になります。」
「そうですか。わかりました。
幼いあなたの勇気と聡明さのために、この依頼を 引き受けましょう。」



夜の闇の中。
光は細い月光のみ。
その暗闇の中、黒い着物を着た青年が歩いていた。

晴明だ。

隣には、同じく地味な着物を着た少女。
二人は今、葵の母をつけていた。
夜半すぎ、母がこっそり家を出たのを確認した葵は、晴明に持たされていた 小鳥を放した。
その小鳥の合図で、すぐに晴明がやってきて、二人で今、 葵の母、楓をつけているのだ。

「暗いですから、気をつけて。」

囁いた晴明が、ぎゅっと少女の手を握った。
小さな少女の手は、震えていた。

「・・・葵。」
「は、はい。」

呼びかけに小さく答えた少女の顔は、かわいそうな程、こわばっていた。
いつも明るく、元気な母が、苦しそうな、辛そうな顔で、前を歩いていた。
足取りはしっかりしている。
正気である証拠だ。
晴明は、葵の話を聞いてから、すでに、楓について色々調べていた。
だから、今、彼女が向かっているであろう場所も予想がついていた。
だが、まだ、葵には話していない。
この少女は自分で確かめなければ、なにも認めないだろう。
心配でたまらないであろう少女に、晴明は、そっと笑いかけた。

「大丈夫。ずっと手をつないでいますから。」

その言葉にこくりとうなずき、二人は無言で楓を追った。
楓が立ち止まったのは、町から外れた草むらだった。
晴明と葵は背の高い草の陰に息を潜めて隠れた。
そこで、楓は呼びかける。

「・・・どこにいるのです?」

静かな声だった。
その声に答えるように、背の高い草が動き、一人の人影が見えた。

「・・・楓。」

その声に晴明は覚えがあった。
予想通りの相手だ。

彼の名は、源 雅直。
貴族の中でも、位の高い男。

彼は、十五年前、出世のために娘をある名門の出の男と結婚させようとし、
娘に、逃げられていた。彼女には、愛する人がいたのだ。
その娘が、楓だった。
彼女は駆け落ち同然で家を出、子供を一人、産んだ。
それが、葵。
夫が亡くなった後も、彼女は、町で、庶民として暮らし続けた。
娘とともに。

「・・・まだ、承知せぬのか。」

硬い声音で男が言った。

「何度言われても、承知するわけには参りません。
あの子は私のすべて。
どうして、あなたに渡すことができましょう。」

その言葉に、晴明の傍らにうずくまっていた葵が、ぴくりと動いた。
楓が言う、あの子とは、葵のことに違いないからだ。

「私は、貴族の家に産まれた女の生き方というものをよく知っています。
そんな生き方を、あの子にさせるつもりはありません。」

その言葉は、雅直を激昂させたようだった。

「・・・お前という女は!
女など、道具と同じだ。
美しく生まれ、可愛がられ、 位の高い男のもとに嫁げばよい。
お前のせいで、十五年前、我が家はいい恥さ らしとなった。
今度こそ、その恥をそそぐ時。
あきらめはしない。
お前の娘、 葵を私に渡せ!」

そう、雅直の目的はそこにあった。
血統的には、源家の娘である葵を引き取り、出世のための道具にしようと。

「嫌です!」

凛とした声で言い放った楓は、その後、大きくため息をついた。

「・・・父上。」

その言葉にまた、葵が反応する。
楓の父なら、葵の祖父。
葵は、自分に祖父がいることなど、これっぽっちも知らなかった。

「何故、お分かりにならないのです。
母上は、あなたのなさることすべてに 黙って耐える人だった。
私は、あんなふうにはなりたくないと、いつも 思っていました。
だから、十五年前、家を出たのです。
私は、あなたの 人形じゃない。
あなたの出世のためだけに生きてゆくのは嫌だった。」
「何を生意気なことを・・・!」
「静かに暮らしていた私を、呼びだし、今さら娘を引き取ろうとなさるのは、
桜姫が亡くなったからですか。」

桜姫についても、晴明は調べていた。
雅直の側室の娘で、入内が決まっていた少女。
だが、この間の流行り病で亡くなったという。
まだ、十二の姫だった。
雅直は、その、死んだ少女の代わりに、
葵を入内させるつもりなのだ。
だから、今まで、卑しい男の子供と蔑んでいた葵を引き取ると言い出した。

「強情な女だ、お前は。
それだけ痛めつけられても、娘を渡さぬか。」

雅直が見ているのは、楓の身体に無数についた痛々しいあざ。
どうやら、思い通りにならぬ娘に業を煮やした雅直は楓を打ち据えたらしい。
夜中に会っていたのも、葵に気付かれないようにしたかったからだろう。

「私が本気になれば、
もっとお前を痛めつけることも、
葵を攫うこともできる のだぞ。
私は貴族。
今のお前はただの庶民。
攫われても文句など言えまい。
それを、こうして、お前に交渉しているのは、
僅かに残った親の情けだとい うのに・・・。
余程、辛い思いをしたいらしい。」
「こんな痛み、なんでもありません。
人形のように生きる辛さに比べたら。」

それでも気丈に言い放った楓に、雅直は、ますます激昂する。

「情けない!
そんな貧しい身なりを、仮にも源家の娘がするとは。
お前の娘も かわいそうだと思わんのか。
粗末な着物で、貧しい暮らしをさせて。」
「そんなことで、人の幸せははかれません。
私と娘は今まで、貧しくとも、幸せ に暮らしてきました。
あなたさえ何もしなければ、今までどおり暮らして いけます。
もう、私たちにかまわないで。
あなたの娘、源家の楓は死んだの です。
あなたに、孫などいない!」

そう言い放って、楓は、踵を返した。

「待て。」

不気味なほど静かに、雅直が言った。
その調子をいぶかしんで、楓は思わず、振り返り、そして息を呑んだ。
雅直の手にあったのは鈍く光る太刀。
その太刀が振り上げられる。
だが、その瞳の色は正気を失ってはいなかった。
本気で斬る気はない。
そんな度胸のある男でもなかった。

下手に刺激したほうが危ない。

そう判断して、晴明は、葵の手をぎゅっと握ろうとした。
だが、少女には、正気と狂気の境がわからなかった。
頭にあるのは、母が斬られようとしているということだけ。

次の瞬間、葵はものすごい強さで、晴明の手を振り払った。

「いけない!」

小声でたしなめる晴明の声も、聞こえてはいなかった。

「だめーっ!」

葵の叫び声が響く。
葵は、太刀が振り下ろされる前に、太刀と楓の間に滑り込む。

慌てたのは、楓だった。

彼女には、父が本気で自分を斬ろうとは思っていないことがわかっていた。
だから、自分の決意を示すために、動かないでいたのだ。
だが、葵の出現で、雅直の手元が狂ってしまった。
このままだと、葵が斬られる。
とっさに、楓は葵を抱き込んだ。
一瞬後に走る、鋭くて鈍い痛み。
その場にいた、全員が、時が止まったように感じた。
どさりと倒れる楓。
雅直は血に染まった娘を前に、呆然と立ち竦んだ。

少し脅かすつもりだった。
寸前で刀を止めるつもりだった。
それなのに・・・!

「母さま!」

その血に染まった身体に少女が取りすがって泣いている。
どこからか、駆け寄ってきた黒衣の青年が、手早く傷を見た。
雅直にも、すぐにわかった。
致命傷だ。
握ったままの太刀が血に濡れているのを見て、雅直はそれを取り落とした。

「晴明様!母さまを助けて!」

叫ぶように言った少女に、晴明は、静かに首を振った。

「もう、無理です。
痛みを一時的に和らげることくらいしかできません。」

そう言って、懐から出した数種類の薬草を揉み、傷口にあてがった。

「そんな・・・!」

絶句した少女に、楓は最期の力を振り絞って手を伸ばした。

「・・・葵・・・。」
「母さま!死んじゃだめ!」
「・・・あなたが無事でよかった。」
「ごめんなさい!私のせいで・・・!」
「あなたのせいじゃないわ。
・・・そして、父上のせいでもない。」

その言葉は、呆然と自分を眺めている雅直に向けられていた。

「・・・楓。」

かすれきった声が、雅直ののどから漏れた。

「父上が、本気で私を斬ろうとしたのではないことくらいわかっています。
ただ、不運が重なっただけ。
だから、葵、誰も恨まないで。」

苦しげに呟いて、楓は、ふと、傍らに立つ晴明を見上げた。

「あなたは?」
「私は安倍晴明。葵の依頼を受けて、あなたのことを探っていたんです。」
「そう・・・でしたか。すみません、こんなことに巻き込んでしまって。」

苦しげにしながらも、楓が謝る。

「いいえ。私こそ。私がもっと気をつけていれば・・・。」
「ふふ。例えあなたが気をつけていても、この子は私に駆け寄ったでしょう。
そういう子です。・・・私が、そう育てました。」

そう呟いた楓の顔は、とても誇らしげだった。
そして、その手から少しずつ力が抜ける。

「母様!」

その最期の刻を感じて、葵は叫んだ。

「晴・・・明様・・・。娘を・・・。」

頼みます、という言葉は声にならなかった。
手が、ぱたりと地に落ちる。

「母様!」

葵が号泣した。



「楓の遺志だ。お前の好きなようにするがよい。」

めっきり老け込んだ雅直は、静かに言った。
その言葉に頷いた葵は、質素だが美しい着物を着ていた。
彼女は晴明の屋敷で使用人として働くことになったのだ。

ほとんど、押しかけ同然だったが。

独りで生きてゆくのは無理だった。
だが、祖父の屋敷には行きたくなかった。

葵は晴明を説き伏せ、使用人におさまったのだ。

事故とはいえ、自らの手で娘を死なせてしまった雅直は、
楓の遺志を尊重し、その話を受け入れたのだった。

そして。

葵も、雅直を恨んではいなかった。
あの時、太刀筋が狂ったのは、他でもない、自分のせいだったから。
そして、誰も恨むなというのが楓の遺言だったから。

ただ、悲しいだけだ。

新しい家となる晴明の屋敷で、
葵は静かに涙を流していた。
傍らには、晴明が静かに座っていた。
ことり、と葵はその胸に頭を預ける。
まだ幼い頬に、涙の跡がきらきらと光った。

「・・・助けられなくて、申し訳ありませんでした。」

ちいさく、晴明が呟いた。
もう、何度聞いたかわからぬその言葉。
その静かな呟きに、葵はちいさく微笑い、そして泣いた。

「・・・そうよ。あなたのせいで助けられなかったんだから。」

八つ当たりでしかないことを呟く。

「そうですね。」
「私は独りになっちゃったんだから。」
「・・・すみません。」
「だから、ずっとそばにいて。」
「はい。・・・必ず、あなたのそばに・・・。」

そうして。
少女との約束は永く続く誓約となった。

そう、それは、永遠の約束。

彼らの行き着く先は、
まだ誰も知らない。

Fin.


↑登録させていただきました。
よろしければ投票してやってください。
「水弥月 結」で検索してくださいね。

コメント:水弥月の友人、さっちー様リクエスト、「歴史モノ」です。
ブームにのって晴明様の話にしてしまいました。
こんな駄文でごめんね。なんか、歴史っぽくないし。
でも、キャラは気に入ったので、そのうち続編を書きます。
裏設定は、いっぱい作ったので。
遠い異国にいる友人に捧げます。
どうか、身体には気をつけてね。

水弥月 結


BACK

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送