彼の激情は、抜き身の剣のように・・・・・・。

鏡に映る剣

六章


最初に見えたものは泣きそうな姉の顔。

「・・・・季鏡!季鏡、私がわかる?」
「・・・お姉・・・様?」

掠れた声は、自分のものではないようにざらついている。
死んだと思ったのに。
いまだ私は生きているらしい。

そう自覚すると、肩の傷がずきずきと痛んだ。
これは、矢傷のためというより、矢に塗ってあった毒のせいなのだろう。

頭の回転は鈍っていないらしい。

小さくため息をつくと、布擦れの音と共に伯符と公瑾が入ってきたのが見えた。

「あ、伯符様、公瑾様。季鏡が目を覚ましました。」

梨鏡の言葉に、二人が慌てて、季鏡の元に走り寄る。
公瑾の顔はいつもにも増して青白く、その白さがその美貌をまるで人形のように見せていた。

「もう大丈夫だ。意識が戻ればもう大丈夫だと軍医が言っていたからな。」

伯符の言葉に、梨鏡が彼にしがみついて泣き崩れる。
その様子を見て、季鏡はふと微笑んだ。
どうやらこの二人は上手くいったらしい。

「さあ、我々は帰ろう。そなたも疲れただろう。」
「ええ、そうね。」

涙を拭いながら頷く梨鏡に、季鏡は手を差し伸べた。

「ありがとう、お姉様。」
「いいのよ。貴女が死ななくてよかった。・・・また来るから。」
「ええ。」

季鏡の手を一瞬、握り締め、伯符と梨鏡は帰っていった。
残されたのは無表情の公瑾と、季鏡。

「・・・なんて顔をしているんです。」

季鏡の言葉に、公瑾は痛そうな笑みを浮かべた。

「貴女こそ。・・・何故私を庇ったんです。」
「夫を庇うのに・・・、しかも、孫軍の参謀を庇うのに、理由がいるの?」
「貴女は貴女の命より私の命の方が重いと言いましたね。」
「そうよ。今、貴方に死なれたら、孫軍は滅茶苦茶になるわ。伯符様も動揺する。
会議も、作戦も進まなくなるでしょう。そうなれば皆破滅だわ。
名前だけ有名な『二橋』の一人が死んだって、何も損はない。
そうでしょう?
貴方ならわかっているはずよ。
いついかなるときも冷静沈着な周瑜公瑾なら。」

その言葉に、公瑾は祈るように季鏡の手を握り締める。

「本当に?本当にそう思っているんですか?」

静まり返った水面のような公瑾の瞳は、総てを見透かすような気がする。
季鏡は思わず目を背けようとしたが、公瑾はそれを許さなかった。

やがて季鏡は、観念したように目を伏せる。

「・・・そうね。確かにそれが貴方を庇った理由よ。建て前としては。」
「私が聞きたいのは本当の理由です。貴女は私を、名目上の夫としてしか見ていなかったはず。」
「そうよ。私は、命令だったから貴方に嫁いだ。反論は許されなかった。
そして、私には、姉のように泣くことも、女としての幸せを求めることもできないとわかっていた。
・・・あの時も、貴方に間者の存在を知らせることさえできればいいと思っていた。」

静かなその言葉に、公瑾はもつれたままの季鏡の黒髪を梳いた。
それは、彼女がどれだけ急いで馬を走らせたかの証。

「でも、貴方を見たら・・・。茂みの中の鏃を見たら、庇わずにはいられなかった。
貴方なら、きっと私が庇わなくても対処できたと思うのに、そんな冷静な自分はどこかにいってしまっていたわ。」

そして、季鏡は吐息をつく。

「私の中に・・・こんな激情があるなんて思いもしなかった。
私はすべてを諦めていて・・・。それゆえにいつも冷静でいられると思っていたのに。
貴方の命は諦められなかった。」

囁くような、独り言のようなその言葉は、公瑾を歓喜させる。

「私も、自分の中に眠る激情の存在を知りました。」
「え?」

不思議そうな季鏡に、笑いかけ、公瑾はいつもと同じ穏やかな口調で続ける。

「あの時、貴女が射られた時、頭では間者を生かして情報を聞き出すべきだとわかっていました。
そんなこと、兵士なら誰でもわかっていることです。」

そして、彼は、きつく季鏡の手を握る。

「でも、私は、彼を殺してしまうところでした。」

平坦な口調が、僅かに揺れる。

「貴女を傷つけた者を、生かしておきたくなかった。」

緩やかに伸ばされた綺麗な指は、そっと季鏡の頬を滑る。

「伯符様に止められていなかったら、私は彼を殺していました。
この私が。冷血な人形のようだとまで言われた、この周瑜公瑾が。」

初めて触れるその肌は、さらりとして暖かい。

「貴女は私の中の激情を引きずり出す。」

苦しげなのに、何故か嬉しそうに公瑾は呟いた。

「どうすればいいのかわからなくなったことなど、初めてです。」

困ったようなその言葉に、季鏡はゆっくり目を閉じ微笑む。

「それは私も同じです。・・・でも、公瑾様。」

ふわりと開かれた鏡のように透明な瞳。

「私の簪はもう揺れてはいません。」

その言葉に、公瑾は一瞬目を見開き、そして笑った。

これは、初めて会ったときの自分の言葉に対する答えなのだ。
簪が静まった時、触れよう、と。
そう告げた自分への。

「私の簪は貴方を救うためになくなってしまいました。
だから、もういいんです。
私を、貴方の妻に。」

ゆるりと流れた髪は、起き上がった季鏡の美貌を彩る。
そして、季鏡は公瑾の手を取った。

「この手は、一度私に触れました。
そのぬくもりは、多分、私がずっと求めていたものなんです。
だから・・・・。」

私を受け入れて。

言えなかった言葉は、それでもちゃんと公瑾に届いた。
華奢でやわらかな季鏡の身体を、公瑾はきつく抱き締める。

鏡のような綺麗な瞳から零れ落ちた涙は、やわらかく公瑾に受け止められる。

「愛しています。」

穏やかで強いその言葉は、季鏡の黒髪を静かに揺らして消えた。

帰還



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