怪我の功名

 

 

失敗をした。
 負けず嫌いを自負する工藤新一も、

その状況だけは認めざるを得なかった。
 怪我をしたのだ。

左の上腕部の人体における外側の裂傷。

まあ要するに左腕の上の外側を、ひどく痛そうに裂かれたのだ。
 あの、工藤新一が。

犯人と対峙して、相手の持つ武器によって傷を負わされたなんて事はない。

しかし、事件によって傷を負ったというのは正解だった。
 依頼は例のごとく彼の知り合いである目暮警部から。

暇を持て余す高校生の春休み、する事といえば、食事も睡眠も忘れて推理小説を貪ることくらい。

即座に返事をしたのはきのうの昼前。

思えば少々不謹慎だったのがいけなかったのかもしれない。
 飽きてたのだ。

淡々と過ぎていく日常に。

暇は目的があれば有意義に使えるが、ありすぎると端から腐っていく。

そこで飛び込んできた事件に、空腹の犬のように飛びついた。

それが不謹慎だった、と。その時の状況を思いだして苦笑した。
「何を笑っているの」
 淡々と特に感情の起伏の見あたらない、しかしすっと綺麗に透き通った声がした。

思わず新一は身体を強張らせた。

ただ単純に苦手なのだこの声が。

いや、この声の人物が。
 怪我をして、一番最初に浮かんだのがほかでもないこの宮野志保の顔だったので、

新一は少しだけ自己嫌悪した。

今までに何度も怪我をしたとき、

志保が医療に詳しいのをいいことに何度も診てもらっている――もちろん病気のときもそうだ――ためか、

一種の条件反射で、怪我や病気イコール志保だという方程式が頭の中でできあがっているのかもしれない。

これを考えると自分が犬になったみたいでたまらなくいやだと新一は思う。

あの有名なパブロフの犬。
 ともかく、病院系統が苦手――というよりわざわざ赴くのが面倒くさい――な新一は、

自分の身体に異変があると志保に診てもらうことが癖になっているため、

怪我をしたときに素直に思ったものだ。

失敗した、と。
 だいたい警察関係の依頼で動いていたのだ。

怪我をしてろくな事が起こらない。

逃走中の犯人を追う途中、ちょっと金網が破けている箇所があって、

そこで腕を裂いてしまっただけなのだが、どうやら警察にとっては大問題だったらしい。

工藤新一はいくら探偵だとして有名だとしても、いかんせん高校生であることにかわりはなかった。

未成年であること。

それが問題だったらしい。
 結局事件を中途のまま病院に送りつけられそうになり、慌てて家に逃げ帰った。

実際の傷は深そうに見えて以外と浅いが、痛いことは痛い。

致命傷ではないのだが。
 そんな傷が一番嫌なのだ。

華奢な外見からか周りの誰もが心配して、それこそ陶器でできた人形のように扱われることもざらだった。

幼い頃は特にそうだった。

最近はそうでもないが、幼なじみだけは相変わらず心配してくる。

それこそ煩いくらいに。

それが痛くて、かなしくて、辛い。
 蘭に知られなくてよかった。

それが第一感想だが、その後が問題だった。
「そんな目で見ていても何も解決しないわよ、名探偵さん」
 いつの間にか目の前の志保を睨みつけていたらしい。

そんなつもりのなかった新一は、意味もなく睨みつけたことに少々の罪悪感を感じて、彼女から目を逸らした。
「だからって目を逸らしても解決しないわよ」
 そんな怪しげな新一の行動をどう思ったか、彼女の口から出たのは淡々としたそんな言葉だった。

新一は眉を寄せた。
「そんなんじゃねえよ」
 不機嫌な声だった。

その声にも感情をくすぐられることなく、志保はいう。

「どんなんでもいいから、さっさと腕を出してちょうだい。忙しいのよ私も」
 そうして志保は、無理矢理新一の腕を引いた。

持たれた箇所は手首だが、思いっきり引かれたためか上腕にまで刺激が伝わって、痛い。
―――っ!」
 激痛が、新一の身体をまるで電気のように走った。

声にならない悲鳴が口から漏れる。

新一は、まるで金魚のように口を動かして、医師に激痛を訴えた。
 が、無駄だった。

志保はちらりと新一を見て、それから視線を元のように腕に戻す。
「致命傷にはなっていないようね。

――あなたが平気そうにしているんだから当たり前でしょうけど」
(って無視かよ!)
 淡々と進める志保に、新一は思わず心の中で突っ込みを入れた。

この際致命傷ではないことは置いて、痛いには痛いのだ。

そのことを志保は分かっているはずなのである。

それなのにあの言葉。

平気なんかじゃねえよとかろうじて反論したのは、それからずいぶん経ってからだった。
……まあ、とりあえず消毒は必要ね」
 志保はほかにも何かいったようだったが、新一にはその言葉しか聞こえなかった。

なぜならその言葉と共に志保が取り出したのは、過酸化水素水。

別名オキシドール。

小さい頃から一度は世話になっているだろうと思われる薬品である。

その痛みは身にしみて知っている。
「それ、使うのか?」
 手際よく脱脂綿に薬品をつけていく志保の手元を指さして、新一はいった。

その声は幾分震えていたかもしれない。

志保は、何を当然、というような目を新一に向けた。
「傷は一応水で洗ってはあるんでしょう?」
 その声にああ、と頷く。

痛みは突然やってきた。
「それならあとは消毒するだけなのよ。我慢しなさい」
 志保は淡々といったが、新一にとってはもうそんなことはどうでもよかった。
 あまりの激痛に少し涙目になっている。

これは痛いから出ているんじゃなくて、生理的なものなのだ。

痛みを感じると、条件反射として出るような物。

新一は何とかその涙を理論づけた。

この年になって消毒をしたからって涙が出るのは、かっこわるいというより情けない。

結局痛いから出ているのだという結論からは目を逸らして、生理的な反応ということでプライドを守った。
 そんな馬鹿なことを考えている間に消毒は終わったらしい。

志保はいつの間にか包帯を傷口に巻き始めていた。

それがまた痛い。
 新一が怪我を――志保の治療を痛がる理由はここにあった。

なんの恨みがあるのか、治療がむちゃくちゃ痛い。

これは我慢強いとか、耐えるとか、そんな域を超えている痛さだった。

的確に痛いところをついてきている気がするのだ。
 ぐっと志保が包帯を引いた。

腕が締め付けられる。

「痛っ……

と、思わず声を漏らした。
「痛いの?」

からかうような目が向けられた。

新一はむっとしたが、ここで虚勢を張ることは損だ。

不機嫌な声で言い返す。
「いてえよバーロ。もうちょっと優しくとかできねえのかよ」
「できないわね」

即答だった。

「だって痛いようにしているんだもの。痛くないように、なんてとても無理な話だわ」
「は……

新一は絶句した。

どうもそんなことをする意味が分からない。

「なんで……
「そんなことくらい自分で考えなさい。あなた探偵でしょう?」
 関係ない、と新一は思った。

探偵だからって人の気持ちが分かるはずがない。

もしそんなやつがいたら、一度お目にかかってみたいもんだと皮肉な頭で考えた。
 くるくると綺麗に白い包帯が巻かれていく。

新一はその様子をぼんやりと眺めていた。
「私だってね……
 ふと、小さな声で志保がつぶやいた。

新一は視線をそっちに移動させる。

角度が悪いのか、彼の目からは赤みのかかった、彼女特有の茶色い髪しか見えなかった。
「怒っていないわけじゃないのよ」
 その声は、珍しく消え入りそうな声だった。

この角度からどうしても見ることができないその顔を、突然新一は見たい、と思った。
「終わったわ」
 それを合図にしたかのように、志保がぽん、と新一の左の上腕を軽く叩く。

激痛が走った。
――……てめ……
 激情のままに言葉を発して、涙が少し出た目で新一は志保を睨んだ。

それから金魚になる。
「これに懲りたらもう怪我なんてしないことね、名探偵さん」
 そうして髪をかきあげた志保の声にも、顔にも、いつものクールさ以外の物を見つけることはできなかった。
――ああ、そうするわ……
 心の底から、そう思った。

怪我をするたびに毎回これではたまらない。

溜め息混じりにつぶやくと、元気のない足取りで阿笠邸を出た。
 それから彼は、ふと気づいた。

前回もこんなことをいってここを出たことを。
「懲りねーな俺も……
 そうしてつぶやいた彼の顔は、かすかに微笑んでいた。

 

 

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