黒竜の巫女

 

 

〜十章〜

 

「これを。」

 

差し出された盃には、甘い薫りのする琥珀色の液体が入っていた。

 

「竜と契るときに巫女が飲む薬だ。痛覚をある程度抑える。

あまり、効果はないだろうがな。」

一気にそれを飲み干すと、

酒に酔ったときのようにふわふわとした。

「意識をなくせるものならなくしてやりたいが・・・。

多分、余りの苦痛に意識を失うこともできないだろう。

それでも、・・・この可能性を試すか?」

 

雪解は、本当に自分がもたらす苦痛の凄まじさを識っているのだろう。

多分、今まで紫姫が体験したことのある痛みとは種類が違うのだ。

だが、それでも紫姫は逃げるつもりはなかった。

 

「言ったでしょう?私は貴方の妻なのよ。」

 

淡く微笑んだ紫姫を、

辛そうに見て、

せめてもというように、

優しく優しく彼女の身体を横たえる。

 

口付けを落とす雪解の瞳は、

漆黒から金色に変わっていた。

 

竜の本性に戻りつつあるのだ。

 

枷を外された力が、

出口を求めて暴れ回っているのがわかる。

ひとりでに髪が舞い上がり、

肌がぴりぴりと痛む。

身体にまとわりつく服さえも痛みをもたらして、

紫姫はもがきながら服を脱ぎ捨てた。

 

それでも、痛みは消えない。

やわらかな敷布も、針の山の上に寝ているように感じられる。

 

薬の効果など、微塵もない。

脂汗を流しながらも、声を出さないように唇を噛み締めている紫姫を、

雪解は、妙にはっきりした意識の隅で見ていた。

自分にはどうすることもできない。

 

愛する者を、自分の手で死に追いやるところを、

目をそらすことも出来ずに眺めている。

 

自分に出来るのは、

せめて早く契りを交わしてしまうことだけ。

力を限界まで注ぎ込めば、

彼女は死ぬ。

けれど、それこそが、彼女の苦痛が終わるときなのだ。

 

それがわかっていたから、

雪解は躊躇わずに身を進めた。

彼女を、少しでも早く楽にするために。

 

 

その瞬間、紫姫は自分が叫んでいることに気付いた。

叫ぶことで痛みを逃がそうとする。

まったく効果はなかったけれど。

 

雪解を受け入れている身体が痛むのか、

力を受け入れている精神が痛むのか、

もう、それすらもわからない。

身体の中で、巨大な力が暴れ回っている。

目の前が真っ暗になり、

自分の身体がどうなっているのかわからない。

生きているのかどうかさえも。

 

ただ、純粋な痛みだけが、

総てを支配している。

 

目を開いているのか、閉じているのか。

息をしているのか、していないのか。

何かを掴んでいるのか、掴んでいないのか。

耳が聞こえているのか、聞こえていないのか。

自分が叫んでいるのか、叫んでいないのか。

 

何も、わからない。

 

どれだけの時間、この痛みに耐えているのだろう。

意識を失うことも許されない痛みは、

永遠のように思えた。

 

 

扉の向こうから聞こえる、苦痛の叫びを、

糸姫は竜玉を抱き締めたまま聞いていた。

完全体である神竜との契りではたいした苦痛はない。

五竜との契りに苦痛が伴うのは、

彼らが不完全だからだ。

自分の、人間の、子だからだ。

 

特に、破壊の力のみを受け継いだ黒竜との契りは、

身体と精神が死に絶えるまで続く苦痛が伴う。

 

それは、すべて自分の責任なのだ。

 

わかっていたのに。

 

ただのヒトが神と呼ばれる異形の者と結ばれることの危険さを。

 

なのに、自分は、自らの恋情を貫いてしまった。

そのこと自体を後悔してはいないけれど。

それでも。

それでも・・・!

 

神竜の反対を押し切って五竜を産み落としたのは、

自分の過ちだったのかもしれない。

巫女とはいえ、

ヒトの身で、

竜王を産み落とすことなど。

 

紫姫の叫びは、途絶えない。

途絶えたときが、

彼女の死を意味する。

そして、

世界の死を。

糸姫は、祈るように竜玉を強く抱き締めた。

 

 

・・・ナニカミエル。

 

痛みの中で、視界をよぎったもの。

黒く輝く球体。

紫姫は、痛みに軋む身体で、

その球体に腕を伸ばした。

 

否、実際は、精神世界でのことだったのかもしれない。

 

腕を伸ばすたびに、

皮膚のあちこちが切り裂かれるような心地がする。

それでも、何故か諦められなくて、

紫姫は腕を伸ばす。

爪の先程進むのに、身体を引き千切られそうな痛みに耐えなければならなかった。

それでも、手を伸ばす。

どうしても、掴まなければならない気がした。

 

 

紫姫の叫びが止まった。

雪解は自らの力をギリギリのところで押さえ込みながらも、

訝しげに紫姫を見遣る。

声が出せなくなるところまで来たのだろうか。

口を開いていられなくなるということは、

自発的に息ができなくなるということだ。

 

終わりが、近いのかもしれない。

 

一瞬、そう思った雪解は、

自分の腕に爪をたてる紫姫を見て、

顔色を変えた。

もう、指一本動かせないはずなのだ。

実際、紫姫の身体は限界にきている。

それなのに、指が動いているということは、

精神力で無理矢理動かしているということだ。

 

紫姫の自我は、まだ生きている。

 

何かを掴もうとするように指を動かす紫姫を、

雪解はなす術もなく見つめる。

掌を握り締めた紫姫は、

自らの爪で掌を傷つける。

そんな痛みは、

今の彼女には、ほとんど感じられないほどだろう。

それでも、少しでもその痛みを軽減したくて、

指を無理矢理開かせ、自分の指に絡ませる。

 

「・・この手を、握りつぶしてもいい。」

 

雪解の囁きは、

聞こえもしない紫姫の耳朶を打った。

 

 

・・・モウスコシ。

 

もう少しで、あの球体に手が届く。

 

紫姫は必死だった。

理由なんてわからない。

だって、もう、何も考えられない。

ただ、この手を伸ばすことをやめたら、

自分は完全に消滅するだろうという妙な確信があった。

 

凄まじい痛みは、

死の安息を求めるには充分すぎるものだった。

この手を下ろせば、死ねる。

 

でも、諦めたくないのだ。

自分からは絶対に諦めたくないのだ。

 

その意識だけが、紫姫を動かす。

 

ワタシハ、ユキゲトトモニイキル・・・!

 

たったひとつ、強く願う。

あの孤独な魂を、

きっと受け止める。

だから・・・!

 

球体に指先が届いた瞬間、

その漆黒の玉は、

黄金に変化する。

 

それを見つめて、

紫姫は、ようやくその意識を手放した。

 

 

 

九章   終章

 

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