黒竜の巫女
〜五章〜
ぱしゃん・・・
ぱしゃん・・・・・
断続的に波うつ水鏡に、
雪解は、眉ひそめて振り返った。
鏡に映るのは、
四竜。
白銀の光を翳しているのは、
厳しい顔をした白竜。
蒼い膜を張り巡らしているのは蒼竜。
身体の前に紅の球体を抱え込んでいるのは紅竜。
大地を抱くように跪いているのは緑竜。
彼らの向こうには、昏く巨大な力がある。
遠く離れたこの水鏡にも影響を及ぼすほどの力。
雪解は、水鏡から目をそらし、
自分の手をじっと見つめた。
自分の、この黒竜の力なら、
この力に対抗できるはずだ。
潜在的には、その力がある。
だが・・・。
硬く握り締めた手のひらに、
長い爪が食い込み、
青みを帯びた血が、ぱたぱたと流れ落ちる。
だが、
雪解はそのことに気付きもせず、
ただ、じっと、立ち尽くしていた。
*
数日後。
肌に感じる痛みに、紫姫は、はっとして立ち上がった。
この気は、白竜のもの。
彼が、この黒竜の城にやってきたのだ。
しかも、妙に気が荒れている。
何かあったのだろうか?
彼ら四竜がいなくなってから、
ずっと感じていた空気は、
ここ数日で、とても強くなっていた。
白竜が返ってきたのなら、
何か教えてくれるかもしれない。
紫姫は、慌てて部屋を出た。
*
「黒竜。」
白竜の呟きに、
雪解はゆっくりと顔を上げる。
だが、その目は、いまだに水鏡の中を追っていた。
「やはり、駄目だったのだな。」
「ああ。我ら四竜の力をもってしても、
・・・どうすることもできなかったのだ。」
苦しげにそう言った白竜は、
自分も水鏡を覗き込む。
そこには、今まで生きてきた千数百年の間には、
起こったことのなかった事態が起きていた。
原因不明の病にあえぐ人々の中に、
見知った面影を見つけて、
白竜は、ふと顔を顰めた。
「この者たちは・・・・。」
「・・・ああ。紫姫の・・・あの娘の母と妹だ。」
「そうか。・・・母上の一族・・・。
まさか、今回のことは巫女のせいになっているのか?」
「いや。最初はそう言う者もいたようだがな。
もう、それどころではないようだ。」
「・・・・・そうか。
だが、どちらにしても、この事態は、
我ら、五竜の責任だ。
我らが揃っていながら、
この状況をどうにもできないとは。」
「・・・・とうとう、この力を、
使わねばならぬ時が来たのかもしれない、な。」
静かに呟かれた言葉に、
白竜がはっと顔を上げる。
「それは・・・!」
「わかっている。この力は最後の手段。
総てを、無に帰す力だからな。」
「ああ。それに、まだ何か打つ手があるかもしれない。
緑竜を使いにやらせた。
父上の元にな。」
「・・・そうか。」
「父上ならば、もしかすると、
原因を知っているかもしれないからな。
なにせ、我らの数百倍は生きているのだから。」
「・・・そうだ、な。」
そう言いつつも、彼らは、
それが気休めであることを知っていた。
例え、父の、神竜の力をもってしても、
この事態が打破できるとは思わない。
ただ、それでも、最後の時まで、
あがくしかない。
二人の竜王は、
同時に重いため息をついた。
*
「では、私は帰るとしよう。
とりあえず、結界は強化しておくことにするぞ。
我らのいなかったぶんだけ、結界が弱まっているからな。」
「ああ。この湖の次元内だけでも、
結界を強化すべきだろう。
せめて、巫女たちだけでも安心させねばならぬ。
すでに、不安が広まっているようだ。」
「巫女たちは元々人間だからな。
精神の不安が力の安定を失わせる。」
独り言のように、そう呟いた白竜は、
苦い顔をしたまま踵を返した。
「ではな。何か起きたら、櫂を寄越せ。」
「ああ。」
白竜が出てゆき、しばらくして、
城内から、彼の気が消える。
その気配に入れ替わるように現れた気配に、
雪解ははっとして立ち上がった。
そのまま、素早く部屋の扉を開け放つ。
そこに座り込んでいた紫姫の姿に、
雪解は一瞬、目を見開き、
小さくため息をついた。
「・・・・聞いていたのか。」
「ごめんなさい。」
沈黙の後に落ちてきた静かな言葉に、
紫姫は、俯いたまま謝った。
立ち聞きするつもりではなかったが、
結果的には同じことだ。
「白竜の気と、自分の気を合わせたのか。」
「・・・・ええ。
でも、普段の貴方なら気付いたでしょう?」
「そうだな。私も、白竜もまったく気付かなかった。
それだけ、私たちの力には余裕がないのだ。」
そう言って、雪解は、紫姫を立ち上がらせた。
「・・・村が・・・どうにかなっているのですね。」
「ああ。・・・・四竜が出かけていたのはそのためだ。
だが、どうにもできなかった。
このままでは、病は世界に広がり、
人間たちは総て死んでしまうだろう。」
「・・・そんな!」
目に涙を浮かべ叫んだ紫姫の肩に、
雪解の大きな手が乗せられる。
「落ち着け。動揺してはならぬ。
巫女の力は精神状態に左右される。」
「・・・わかっています。
だから、私たち巫女には黙っていたのでしょう?」
紫姫はそう言うと、
雪解のローブの袖を掴んだ。
「貴方は、望むものを映す水鏡を持っているのでしょう?
私に、村を見せて!」
「それはできぬ。」
「私が、動揺するから?
ならば、私に術をかけて。
決して、身動きできぬように。
動揺が力に影響を及ぼさぬように。
私は、どうしても村の様子が知りたいの!」
必死で言い募る紫姫に、
雪解は小さくため息をついた。
「・・・仕方ない。
そなたは言い出したら聞かぬだろうからな。
だが、他の巫女たちには決して知らせてはならぬ。
・・・姫水にもだ。」
「わかってるわ。」
真剣な表情で頷いた紫姫に、
雪解は小さく苦笑して、
水鏡への道をあけた。
ゆらゆら波うつ水鏡には、
懐かしい村が映っている。
よく知っている人々が、
病にあえぐ姿をみるのは、
覚悟していても苦しかった。
「・・・五竜でも、どうにもできないの?」
「ああ。私たちがこの村を見守って、
今年で千年。
だが、今までに、こんなことはなかったのだ。」
苦しげに呟いて、
雪解は、水鏡を凝視した。
「村を守護する五竜として、情けない限りだが。」
「じゃあ、もう・・・。
何もできないの?
このまま黙って、人間が死に絶えるのを、見ているの?」
悲痛な紫姫の言葉に、雪解は、目を伏せた。
「・・・・・ひとつだけ方法がある。
だが、それは、成功する可能性が著しく低い。
成功しなければ、総てが消滅する。
私には、そんな無謀な賭けはできないんだ。」
「そんな・・・!」
なおも言い募ろうとした紫姫を、
目で制し、雪解は踵を返した。
「すまないが、どうしてやることもできぬ。
ただ、地上の人々が救えなくとも、
少なくともそなたたち巫女だけは、
なんとか守るつもりだ。
部屋で、心静めて祈れ。
この湖の底だけでも、結界を張る。」
そう、言い置いて、雪解は部屋を出てゆく。
この城の四方に結界を張りに行ったのだ。
紫姫は、それを黙って見送ると、
自分も自室に戻り祈る。
今、彼女にできるのは、
そんなことくらいだった。
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