目に見えぬ心は、冷たく凍えてもわからぬように・・・・・・。

鏡に映る剣

三章


「お前の細君も連れて来い。」

いつものように断定的にそう言われ、公瑾はやれやれとため息をついた。
この幼なじみは遠慮というものを知らない。
断られることを祈りながら季鏡にその言葉を告げると、願い虚しく彼女は目を輝かせて了承した。
侍従たちの話では、どうも相当退屈しているらしい。

読書が趣味だとか聞いているが、長い時間を毎日持て余している彼女は、それだけではやはり退屈してしまったのだろう。
最近は姉もそれなりに忙しく、なかなか訪問してこないらしい。

というのも、伯符が妻を余り外に出したがらないからだ。

最初に盛大に怯えられ、泣かれた彼は、今でも彼女が逃げ出してしまうのではと不安でならないらしい。
こういうところで妙に臆病な伯符を微笑ましく思いながら、公瑾は霧雨の降りしきる中、季鏡を伴って伯符の元に向かった。

「おお、よく来たな。」

既に酒を飲んでいるらしい伯符が、手招きをする。
庭に造られた東屋は、霧雨に包まれてまるで目隠しをされているように暗く静かだ。

「お久しぶりでございます。伯符様。」

季鏡の言葉に、伯符は笑い、彼女の傍らに立つ公瑾を見上げた。

「夫婦というものは似るものか。お前とよく似た物言いをする。」

そして、彼は二人を席につかせ、酒を勧める。
公瑾はそれを受け取り、季鏡はやんわりとそれを辞した。

「梨鏡が最近そなたの元に行けなくてすまないと言っていたぞ。」
「そうですか。気になさらぬようお伝えください。」

微笑みながら答えた季鏡に、伯符が複雑そうな表情で近づく。
ふわりと酒の薫りが漂った。

「梨鏡はそなたとどんな話をするのだ?」
「伯符様。それは彼女たちの秘め事でしょう?」

やんわりと公瑾が窘めるが、酔っている伯符は大仰に肩をすくめて笑う。

「ここだけの話だ。お前だって気になるだろう?」

その言葉に曖昧に微笑む公瑾に、季鏡は苦笑した。
彼はそんなことに興味はないだろう。

「・・・姉の話はいつも伯符様のことばかりですわ。」

静かなその言葉に、伯符は嬉しそうに笑う。

「でも、姉は父しか知りませんから。男の方は恐ろしいと。」

突き落とすように付け加えてみれば、伯符は思った以上に落胆したようだった。
公瑾が、季鏡を見遣ってくすりと笑う。
彼女の小さな意地悪を見透かしたように。

「・・・・それで、俺も恐ろしいと・・・?」
「・・・・そうですわね。優しいけれど恐ろしいと申しておりましたわ。」
「それで、公瑾の方がいいとか言ったんじゃあるまいな?」
「まあ、よくお分かりになりましたわね。」

驚いてみせた季鏡に、伯符はがっくりと肩を落とした。

「だから嫌だったんだよ。大人しい女は皆、公瑾を好む。
気の強い女は公瑾の美貌に嫉妬してこいつを嫌うんだがな。」
「それは私のせいではありませんけど。」

さりげなく傷つけられた公瑾は憮然として言い返し、盃に満たした酒を一気に飲み干した。

「・・・でも私は伯符様より公瑾様の方が怖い方だと思いますわ。」

独り言のようにぽつりと呟かれた言葉に、二人の男が顔を上げる。

「私が?」
「ええ。上手くは言えないのですけれど。その深さが恐ろしいと思いますわ。」

その言葉に、伯符は笑った。

「よくわかっているようだな、お前の細君は。」
「伯符様・・・。」
「俺もな、孫軍で恐ろしいと思うのはこいつだけだ。こいつだけは敵にまわしたくないと、いつも思う。軍会議の度にな。」

そして、伯符と季鏡は共犯者のような笑みを浮かべる。
公瑾は薄く微笑ったまま肯定も否定もせずに黙って盃を傾けていた。

「そなたのような女が、公瑾の妻となってくれてよかった。並の女ではこいつを理解できないだろう。」

大勢の人間の生き様と死を見てきた伯符は、本能のようなもので季鏡の本質を見抜いた。
この少女は、公瑾と同じ深みを持っている。

「公瑾を頼む。」

最後に、季鏡にだけに聞こえるように囁かれた伯符の言葉は、重く彼女の心に落ちた。

その夜。

寝付けずに部屋を出た季鏡は、庭に立つ人影を認めて、すっと姿を隠した。
庭で朧月を眺めているのは公瑾。

「・・・きっと私は心のどこかが死んでいるのでしょうね。」

小さな独り言は、それでもその透き通った声ゆえに季鏡の耳にも届く。

「心が・・・・死ぬ。」

幼い頃から、自分が他人とは違うことに気付いていた。
姉のようになりたいと思っても、どうしてもなれなかった。
愛されていることがわかっていても、幸せになれなかった。
何かが欠けていて、そのために満足できなかった。

あの人となら、欠けた心を、死んでしまった心を補い合えるのだろうか?

季鏡の思考に反応するように、朧月が揺れていた。

次章



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