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紅竜の巫女

〜四章〜

桜姫は、ひんやりとした扉にそっと手を伸ばした。

少しだけ力を込めると、視界がぼやけ、中の様子が少しだけ透けて見える。
大きな寝台の上で、黒髪の華奢な少女が眠っていた。

その寝台も、少女も、否、部屋すべてが、氷漬けになっている。

少女は、桜姫がこの世で誰よりも愛し、そして誰よりも憎んでいる女性だった。

名を、糸宝という。

巫女たちの集まる白竜の城の一室を辞して後、桜姫は紅竜の城に戻ってきていた。
巫女たちにああは言ったものの、文句を言う相手の紅竜は現在外出中で、夜にならねば戻ってこない。

桜姫はすることもなく、ただ引き寄せられるように、城の一番奥、糸宝のために特別に作られた部屋を訪れていた。

この扉を開けることは出来ない。
この扉を開けられるのは、ここをその力で封じた蒼竜と、彼から力で造られた鍵を受け取っている紅竜だけであった。

桜姫はかつて二度だけ、紅竜に連れられてこの部屋に入ったことがある。
最初は、紅竜の元に嫁したその日。
二度目は、紅竜に嫁して百年が経った日のことであった。

桜姫は、虹糸にも糸緒にも、誰にも言ったことのない秘密を抱えていた。
それは、紅竜に言わせれば秘密ではなかったが、桜姫はそれを決して誰にも告げなかった。

それを告げれば紅竜は非難され、桜姫は同情されたであろうが、彼女はそれを望まなかった。
ひとつは、自分のプライドのために。
もうひとつは、愛する男のために。

桜姫は、紅竜を愛していた。
そして紅竜は、それを識っていた。

それゆえに紅竜は、残酷な頼みごとを彼女にしたのだ。

それはその頃、紅竜が糸宝だけを愛していたが故に起こった出来事であり、今の紅竜ならば決してできなかったことであったが、幸か不幸か、桜姫はそれを知らなかった。

今の紅竜には、とてもできないであろう。
今の紅竜は、糸宝と同じくらいに桜姫を愛している。

だが、桜姫自身は、それを知らなかった。

彼女の中にはずっと糸宝が在り、彼女は己が糸宝の上に――否、並ぶことさえもないと思い込んでいるのである。

紅竜は、彼女の想いも自らの変化した想いも識ってはいたが、それを誰にも告げることはなかった。
それは、糸宝に対しても桜姫に対しても罪であると思えたからであった。



『糸宝を、産んでくれないか』



そう言った紅竜の言葉を、桜姫は今でも鮮明に思い出せる。
彼はこの部屋、この封じられた部屋の中で、そう桜姫に懇願した。

彼はその頃、確かに糸宝だけを愛していた。
そしてその時でも、まだ糸宝の生還を諦めてはいなかったのだ。

それは、ある意味では桜姫の罪であったかもしれない。
紅竜一人では不可能であった方法は、力が強く、そして女である桜姫の存在によって、可能になってしまったのだ。

それは、禁断の術であった。
しかも、人間の世界に伝わる不確かな術であった。

それでも、紅竜はそれに頼ってしまったのだ。

彼は、力さえあればその術は完成させられると思っていた。
人間の世界で失敗したのは、その術を使った人間が、人間であったからだと。
人間ならざる神格の者がその術を使えば、きっと上手くいくと思い込んでしまったのだ。

それは、人を転生させるという術であった。

死にかけた人間を救う唯一の手段。
死にかけている人間の精神を抜き取り、力の強い女の胎内に入れる。
その精神は、その女の卵と融合し、その女からはその精神を持った子供が生まれる、という術だ。

なるほど、それは転生というのかもしれない。
だが、人間の世では、一度も成功したためしのない術であった。

まずそもそも、死にかけた人間から精神のみを抜き出すことが出来る人間がほとんどいない。
例えそれが出来たとしても、それを人間の女の胎内に移すにも力が要る。

そしてなによりも、そんな異質のものを胎内で育て、産み落とすことの出来る女は、そう滅多にいるものではない。

だが竜王たる紅竜と、その巫女である桜姫の力ならば、理論的にはそれは可能なことであった。

それゆえに紅竜は、冷静であれば決してしなかったであろう頼みを、自分の頼みを断れないであろう桜姫に伝えたのである。

桜姫はそれを受け入れ、だが、結果としてその術は失敗した。
彼女は確かにその胎内に糸宝の精神を持った子供を宿したが、紅竜の力に既に影響されていた糸宝の精神は、とても普通の子供として生れ落ちることの出来る存在ではなかったのだ。

桜姫は子を宿してから半年後に、それこそ死ぬほどの痛みと共に、人の形をしていない存在を産み落とした。
紅竜は、それに絶望し、それでもどうしようもなくその存在を手にかけた。
それは、人ではなく、ましてや糸宝ではありえなかったのだ。

桜姫はそれを、痛みに耐えながら見つめ、ただひたすら泣いた。
彼女にとっては、それが糸宝であれなんであれ、自らの子供以外のなにものでもなかったのだから。

半年の間、桜姫がどんなに自らに宿る命を愛しんできたのか、紅竜は良く知っていた。
そしてそれを知っていたが故に、彼は深く深く後悔したのだ。

紅竜がしたことは、糸宝も桜姫も壊してしまうことだった。

糸宝には、紅竜の封じられた力の残滓と共に僅かな生命の揺らぎだけが残り、そして桜姫には、何も残らなかった。
桜姫の胎内は、その身に取り込んだ強力な力によって焼かれてしまったのだ。

苦しむ桜姫を見て初めて、紅竜は自分が馬鹿なことをしたのだと悟った。

桜姫の胎内の傷は、蒼竜に頼み込んで癒してもらい、身体的には桜姫は回復を遂げた。
だが、心の傷はそんなに簡単に癒えはしない。

それから何百年経とうと、命を得ることが出来なかった自らの子供の存在が彼女の心から消えることはなく、その子供を失ったときの絶望は、決して彼女の心をそれ以前の瑕ひとつない状態には戻してくれないのだ。

この世界での半年など、人の世では一日くらいにしか感じられない。
だからこそ、桜姫がしばらくの間その出来事ゆえに寝込み、仕事をしていなくても、他の巫女たちは、誰もこの出来事には気付かなかった。

そもそも巫女同士は交流がなかったのだし、それは当然といえば当然であった。

ただ一人、事情を知る蒼竜も、それを口外することはなかった。
他の竜王たちももしかしたら何か気付いていたかもしれなかったが、そもそも兄弟とはいえ、巫女との関係に他の竜王が口出しすることなどないので、結果として桜姫は、この世界でただ一人、孤独に苦しみを抱えているしかなかったのである。

元々意地っ張りで勝気であった桜姫は、身体が癒えると以前のように振舞うようになっていき、巫女たちは今なお彼女の本心に気付くことはないが、だが勿論、彼女の心の奥底についた深い傷は、いつまでも血を流し続けているのであった。

巫女たちは恐らく、子供好きであった自分が子を産めない事、愛する紅竜が糸宝だけを見つめているがゆえに決して自分を愛さない事によって桜姫が苦しんでいると認識しているのだろう。
だがそれはある意味で正しく、ある意味で正しくない。

確かにそれはどちらも苦しいことだ。

桜姫は、湖に入る前から子供が大好きだった。
桜姫の時代は、紫姫の時代とは異なり、生贄となる巫女は、その事実を知らされずに育てられた。
だから桜姫は普通の村の娘と同じように生活してきたし、まさか自分が竜王の花嫁として湖に投げ込まれる運命にあるとは思ってもいなかったのだ。

桜姫は村の子供たちを預かって面倒を見ながら、いつかは自分も村の男の誰かを愛し、その男と結婚し、子供を生み、その子らを育ててゆくのだと漠然と幸せな未来を思い描いていたのだ。
だが、その未来は現実にはならず、彼女は湖に入った後に紅竜の巫女となった。

紅竜を愛したことで、生涯の想い人は手に入れたが、その相手は自分ではない人を見ていた。
ならば、と望んだ子供は、竜王との間には生まれることはないと知らされ、桜姫は絶望した。

それでは自分は、これから気の遠くなるような永い間、永遠にも等しい時間、自分を決して愛することはない男を愛し続けながら毎日を過ごさなければならないのだ。
桜姫はその事実に苦しみ、それゆえに、紅竜からこの扉の向こうで無茶な願いを聞いたとき、迷うことなくそれを了承したのであった。

「桜姫」という存在が愛されないのであれば、せめて彼の最も愛する「糸宝」という存在を、彼と自分の子供として産み落としたかった。
子供であるのならば愛せた。
糸宝が、自分の子供として生まれるのであれば、桜姫は糸宝を愛せる自信があった。

女としては愛してもらえなくても、糸宝の母として、紅竜は自分を愛するだろうという、醜い確信もあった。

だが、実際は、糸宝は生れ落ちることはなく、桜姫は、以前よりももっと深い絶望の淵に突き落とされたのである。

紫姫が羨ましいのは、彼女がそのどちらをも手に入れているからだ。
誰も――兄弟である竜王たちさえも寄せ付けなかった黒竜に愛され、その愛する相手の子供を宿した紫姫。
確かに人の身で竜王の子を産み落とすには苦痛が伴うであろうが、どちらの身も、黒竜が、そして他の竜王、巫女、神竜や巫女姫がなんとしても守るであろう。
少なくとも、人でも竜王でもない、形さえない子供を生み出した己のような事態にはなるはずもない。

苦しかった。

もう、何百年も前の出来事。
諦めようと、何度も自分に言い聞かせた。

けれど、記憶は決して薄れることはない。

恋する女としての苦しみと。
子を亡くした母としての苦しみと。

桜姫は抱えきれない秘密の重さとその苦しみに、ただ立ち尽くす。

扉の向こうのひとが生きていたら、こんなことにはならなかったのだろうか。
自分は紅竜に嫁すこともなく、他の巫女たちのように穏やかに日々を過ごしていたのだろうか?

逃避するようにそう自問し、それでも桜姫は無言で首を振った。
例え紅竜の隣に糸宝が居て、彼らがこの上なく幸せそうであったとしても、自分はやはり紅竜を愛したであろう。
その場合、子を失う苦しみは味わわずに済んだであろうが、仲睦まじい彼らの姿に、自分はやはり苦しむことになったはずだ。

桜姫は、そんな自分の弱さが許せなかった。
彼女の勝気で意地っ張りな外面は、弱い自分を守るための鎧だった。
声高に紅竜を非難し、仕方ない人だと呆れて見せて、仕方ないからサポートしているのだと、他人にも自分にも言い聞かせている。

走り続けていなければ、絶望に飲み込まれる。
桜姫にはそれがわかっていた。

決して愛されない自分。
決して消えない子供の記憶。

その苦しみはいつだって背後から桜姫を追いかけていた。

巫女たちとおしゃべりに興じているときも、紅竜と共に仕事をしているときも、巫女として彼に抱かれているときも。

忘れようとしてきた。
忘れられないと知りながら。

でも、紫姫の言葉が、彼女の存在が、封じ込めてきた感情を引きずり出してしまう。

彼女が悪いんじゃない。
否、誰も悪くなんてない。

ただ、どうやっても感情が制御できないだけ。

文字通り凍りつきそうな冷たさの扉に、額をそっと押し付ける。
黒髪の少女の姿が、じわりと滲んだ。

それは、彼女を凍らせている氷の所為か、この瞳を濡らす雫の所為か。

「糸宝、私は貴女が大嫌いよ」

密やかな囁きが、扉の表面で雫に変わる。

「でもそれ以上に、私は私が嫌いだわ」

しゃんと頭を上げ、必要以上に強く、言い聞かせるように桜姫は呟く。
静かで強い彼女の声は、それでもやはり、氷漬けの糸宝には届かなかった。

三章   五章

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