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紅竜の巫女

〜五章〜

「紅竜様がお召しでございます」

夜。
紅珊瑚で出来た紅い城の中で、紅竜に仕える水の眷属、焔がそう告げた。

桜姫は、湯浴みを終え、ちょうどその艶やかな紅い髪を梳っているところであったが、その言葉に手を止めて、ただ黙って小さく頷く。

焔はその応えに無表情で一礼し、音もなく消えた。
役目はこれで終わったということだろう。

この城に仕える焔は、少年体をした無表情な男で、必要なことしか喋らなかった。
それは、彼がもう絶滅しかかっている水の守人の一族の末裔だからなのだという。

水の守人は言霊を操るがゆえに無口なのだと、だからそこを好んで彼を自らの城に呼んだのだと、いつか紅竜自身が語っていた。
派手な外見とは裏腹に、紅竜は静寂を好む男であったから。

桜姫は、紅い絹の寝巻きを整えると、髪は下ろしたままで自室を後にした。

紅竜の前では髪は結わない。
桜姫は、自分が髪を結い上げると紅竜が苦しげになると気付いていた。

理由は知らない。
でも、彼がそのせいで苦しそうにするのだということを知っていれば、それで十分だった。

巫女としての正装は、髪を結い上げなければならないものだから、他の城では彼女もきちんと髪を結い上げ、簪を挿している。
だが、この城では、彼女はいつも髪を下ろしていた。

珍しい紅い髪は、何も装飾をつけなくても艶やかで美しく、紅竜はその髪を好んで触った。
紅竜の、鮮やかな紅い髪と、己の、漆黒にも見える深紅の髪が、寝台の上で絡まり合うのを見るのは、互いの存在までもひとつになれたようで嬉しかった。

自分の身体のどこか一箇所でも、紅竜に愛されるのは、桜姫にとってこの上もない幸福だった。
魔物のようだとかつて囁かれたことのある紅い瞳も、紅竜と同じ彩だと思えば愛しかった。
そう、最初に紅竜に会ったとき、自分はその彩に、自分と同じ紅色に惹かれたのだ。

紅い髪と瞳は、村でも異端だった。
巫女姫の直系だったから表立って何か言われたことはないが、信心深い年寄りたちが、紅い彩を持つ娘は魔物だと囁いているのを知っていた。
湖に投げ込まれるときも、その彩ゆえに、自分と、もう一人の娘と、どちらを捧げるかでもめたのである。

結局、より巫女姫の血が濃く、力も強かった桜姫が、湖に入った。
村に未練がなかったといえば嘘になるが、桜姫はその決定に感謝している。

湖に入らなければ紅竜に出会えなかった。

村の男の誰かと結婚して、子供を産んで育てるという平凡な幸せと引き換えにしても構わないくらいに、桜姫は紅竜を愛していた。

例え彼から愛されることがなくても、大好きだった子供をその手に抱くことがなくても、恋敵を生かし続けるために力を揮わなくてはいけなくても、それでも、この想いを消し去ることは出来ない。

こうして巫女として召されて、抱かれることは、歓びであり哀しみであった。

身体を手に入れる充足感と、心は決して手に入れられない寂寥感。
相反する感情は、いつも桜姫の心を苛んでいた。

でも、紅竜の召しを断ることなど考えたこともなかったし、一度あの腕の温かさを知ってしまったら、それを断ち切ることはとてもできそうになかった。

力の交歓のためだけならば、数百年に一度の夜を過ごすだけでいい。
けれど、桜姫は紅竜のぬくもりだけでも近くに感じていたかったし、紅竜もまた、桜姫のぬくもりを拒否することはなかったので、桜姫は必要よりも相当多くの夜を、紅竜の元で過ごしていた。

そういえば、紫姫は、黒竜の寝室で毎夜眠るのだという。
からかい混じりに姫水が話していたことを、ふと思い出した。

それは、ヒトの夫婦ならば当然のことなのだけれども、竜王と巫女としては珍しいことである。
そもそも巫女は複数なので、竜王に召される巫女以外は自室で眠るものだ。
制度としてはヒトの世の王族のような制度だと言える。

だがヒトの世でもそれを嘆き悲しむ女がいるように、夫に対する想いは女ならば皆同じものを持っていると思う。
自分以外に夫に愛され、夫に抱かれる女がいるということ。

それは、自己が崩壊しそうなほどの哀しみをもたらす。
ありふれたことではあっても、だからといって心が痛まないわけじゃない。

紅竜には、桜姫以外に夜を共に過ごす女はいないけれど、それでもこの城には永遠に紅竜の一人目の妻であり続ける存在が居る。

糸宝が生きていれば彼女と言葉を交わして、他の竜王の巫女たちのように複雑な想いを抱えながらもそれなりに上手くやれたかもしれないのに。

想いをぶつける相手が存在しないというのは辛い。

桜姫は、目の前にある背の高い重厚な扉を見つめた。

手を伸ばすと、紅珊瑚の冷たく滑らかな感触が伝わってきた。
もう、自分の存在はとっくに紅竜に知られているはずだ。
竜王は、己の城であれば髪の毛一筋が落ちるのも感じ取れるというから。

それが、余計に辛い、と少し思う。
そのせいで、紅竜が留守のときにしか桜姫はあの部屋へ行けない。
桜姫があそこに何度も行っていることを知ったら、きっと紅竜は苦しむだろう。
氷漬けになった、この城で一番美しい部屋。
桜姫の恋敵であり、同時に娘である存在が眠る部屋。

彼女を、産んであげたかった。

もう二度と生命を宿すことのない自らの腹部を宥めるように撫で、桜姫は静かに目を閉じる。

片手で扉を押さえると、嘘のように軽くそれは開いた。
紅く豪奢な寝台の上で、紅竜が身を起こす。

「桜姫」
「架炎」

この城でだけ告げることの許された紅竜の真名を呼ぶ。

この名を呼ぶときは尊称など付けるなと、最初に言われた時から、桜姫は彼を架炎と呼んでいた。

それは、母である巫女姫以外には、桜姫だけが許された特権であった。
ただそれだけのささやかなことが、泣きたいくらいに嬉しくて、桜姫は噛み締めるようにその名を呼ぶ。

「来い」
「……命令しないでよ」

紅竜の短い言葉に、桜姫は反抗しながらも素直に寝台に上がった。

深紅の敷布が、桜姫の身体を優しく受け止める。
下りてきた口付けと共に、酒が流れ込んできた。

巫女の痛覚を麻痺させる、竜王の酒。

深く深く口付けされ、薄絹の寝巻きが容易く剥がされる。
鮮やかな紅い髪が、ベールのように桜姫の顔を覆う。
その中には、桜姫と紅竜の二人だけ。
互いの存在しか感じられない。

もう一度触れた唇に、桜姫はそっと目を閉じた。





水の底には昼も夜もない。
だが身体にはやっぱりちゃんと時間の流れがあって、紅竜はうっすらと目を開けた。

時間で言えば明け方に相当する時間。

僅かに軋む身体を起こして、隣で眠る桜姫を見つめる。
共に眠ったときにしか見られない、無防備な寝顔。
感情を綺麗に映す紅の瞳が閉じられると、ずっと印象が幼くなる。

同じ彩の髪は、紅竜の指に絡まっていた。

その冷たい髪先に、そっと口付ける。

勝気で、竜王である自分に遠慮のない対等の口を利いて、それでも誰よりも優しく脆い少女。
心と身体をぼろぼろに壊した自分を赦して、再びこの腕に抱かれている。

それがどういうことか、紅竜にはよくわかっていた。

彼女は、自分を愛している。
糸宝を決して裏切れず、彼女以外を愛することはない自分を。

だからこそ、こうして今も桜姫は自分の傍に居るのだ。

そして、自分はもう永いことそんな彼女に甘えてきた。
必要なときにすぐにこの腕の中に入る温かな身体。
自分から愛すことはしないのに、時折無性に愛情が欲しくなって彼女に甘えた。

今ではもうわかっている。
自分は確かに、糸宝とは違う次元で桜姫をも愛しているのだと。

何もしてやれなかった糸宝の代わりではなくて、ただ、その魂に惹かれたのだと、今ではわかっている。
そして、糸宝だけに執着し、自分を愛する女を見ないことを、糸宝が喜ばないことも知っている。

糸宝が生きていたならば、きっと自分は平手のひとつやふたつ食らっているだろう。
あの少女も、見た目よりもずっと毅い心に激情を秘めた女だった。

桜姫に、自分が愛されるはずはないと思い込ませてきたのは、他ならぬ紅竜自身だ。
桜姫を娶ったときに、自分が愛するのは糸宝一人だと宣言し、お前を妻として愛することは決してないと言い放った。

その時はそれが真実だった。

だが想いは確かに変化するもので、永い孤独な生活を癒したのは、確かに糸宝ではなく桜姫であった。

彼女と他愛もない口喧嘩をするのは楽しかった。
竜王を一歩引いたところで見ている他の巫女たちと違い、桜姫はいつも生き生きと自分の意見を主張した。
怒って、笑って、泣いて、そしてこの腕に抱かれる夜は、どの巫女よりも艶やかで美しかった。

その彼女を、言いたいことも言えないようにしてしまったのは自分だ。
彼女に無理な術をかけ、彼女の心と身体を壊した。
彼女はその優しさからその傷を隠し、それから言いたいことを呑み込むようになった。
表面上はいつもと同じだったけれども、それでも確かに紅竜には、彼女の中に立ち入れない深い場所が出来たのを知っていた。
そこに、彼女の本当の想いがあって、でもそれは彼女自身によって隠されてしまったのだ。

彼女が、自分の留守のときに糸宝の部屋に通っているのを知っている。
焔は桜姫が思うほど彼女に無関心ではないのだ。

多分、彼が誰よりも桜姫に同情している存在であろう。
その力ゆえに言葉にはしないけれども、紅竜は彼が自分を責めているのを知っていた。

「愛している」

息だけの囁きで、口付けた髪先に告げる。
こんな時にしか真実を告げられない自分。

焔のような力があったら、その力で彼女を絡めてしまうのに。
否、だが、実際そんな力があっても、きっと自分はそれを使わないだろう。
これ以上彼女の心を無理に捻じ曲げることなどできるわけがない。

髪と同じ深紅の睫に、僅かに涙の雫が残っている。
それをそっと舐め取って、紅竜は小さくため息をついた。

その雫は、甘くてそして苦かった。

四章   六章

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