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紅竜の巫女

〜六章〜

城の転移室に降り立った気配を感じ、部屋で仲睦まじく談笑していた黒竜と紫姫はふと顔を見合わせた。

「珍しい客人だな」

寝台の上に寝そべり、本を読んでいた黒竜が不思議そうに首を傾げる。
その彼にもたれて同じく本を読んでいた紫姫も、珍しいですね、と呟き、こちらは少し眉を顰めてみせる。

敏感にその反応に気付いた黒竜が、その手をふわりと紫姫の腰に回した。
長い指が、紫姫の下腹部を宥めるように撫でる。

懐妊がわかってから、黒竜は初産を控えた人間の父親のように、相当な心配性になりつつある。
紫姫は夫を安心させるように微笑んで見せた。

「どうした」
「いえ。ちょっと桜姫様のことを思い出したのです」
「桜姫……。紅竜の巫女、か」
「はい。私はあの方が心配なのです」

黒竜は、糸宝と桜姫のことについても勿論知っているであろう。
紫姫はそう確信して、密やかにそう囁く。

予想通り、桜姫の苦悩に思い当たったらしい黒竜もまた、僅かに眉を顰めて見せた。

今、この城にやってきた客人は、黒竜の弟である紅竜その人である。
そのうちに、櫂が来客を告げに来るであろう。

紫姫は、開いていた書物をぱたりと閉じた。
今日は仕事もなく、寝室で黒竜と二人、読書を楽しんでいたのだが、客が来たとなればこんなところでゆっくりとはしていられない。
身を起こした黒竜の前で、紫姫は惜しげもなく薄手の透ける部屋着を脱ぎ捨て、黒竜の巫女としての正装である漆黒の衣を身に纏った。
夫と同じ竜王である紅竜を迎えるには、この服装でなければならない。
巫女たちが遊びに来たときとは違う、凛とした表情で、紫姫は身繕いを整えた。

解いていた艶やかな黒髪を纏め上げ、紫水晶のあしらわれた銀の簪を挿す。
漆黒の髪と紫の瞳に、その簪はよく映えた。

黒竜はそれを眩しげに見つめ、それでも僅かに瞳を翳らせる。
紫姫と同じ彩を持つ巫女のことを思い出したからだ。

彼女も、銀の簪をしていた。
それにあしらわれていたのは淡い紅色の水晶だったけれども。

紅竜が珍しい客人なのは、彼が滅多にこの城に来ないからだ。
だがその理由を紫姫は知らない。

紫姫がこの城にやってくる前、紅竜は少なくとも白竜よりは頻繁にこの城を訪れていた。
五竜の中でも一番黒竜に近い力を持つ紅竜は、他の竜王たちよりも力の反発が少なかったからである。
だが、紫姫が来てから、紅竜がこの城を訪れたことは数えるほどしかない。

それはすなわち、紅竜は紫姫に会いたくないと思っているという事実の現れなのであった。

もっとも、黒竜はそれをどうこう言うつもりはなかった。
彼は紅竜が何故紫姫を避けるのかよく知っていた。

紫姫は彼女に似すぎているのだ。
彼女――紅竜の一人目の巫女、糸宝に。

糸宝もまた、漆黒の髪と紫の瞳を持つ華奢な少女であった。
巫女としての力は紫姫の方が遙かに強いが、その心は、糸宝も同じくらい毅い少女であった。

長い黒髪を纏め、紅水晶をあしらった銀の簪を挿し、真紅の衣を纏った少女。
彼女のその髪が解け、床に落ちた簪が、蒼竜の力でみるみる凍り付いてゆくのを、遙か昔、黒竜は水鏡で見ていた。

何も出来なかった自分。
あの頃黒竜が力を制御できていれば、糸宝は助かったのかもしれない。

だが、歴史にもしもはなく、少女はもう決して目覚めることはない。

黒竜は、そのことも重々承知していた。

身支度を整えた紫姫を見遣り、黒竜もまた立ち上がる。
彼の漆黒のローブが、ふわりと風を孕んで広がった。

それを待っていたかのように、扉が控えめに叩かれる。

独特のテンポのそれは、この城で黒竜に使える水の眷属、櫂のものだ。

「入れ」
「失礼いたします」

黒竜の声に、扉が僅かに開く。
涼やかな青年が、そっと顔を覗かせ、僅かに頭を下げた。

「紅竜様がお越しです」
「ああ。客室へ通してあるな?」
「はい。紫姫様にもご挨拶をなさりたいと。ご懐妊のお祝いにいらしたとのことです」

櫂の言葉に、黒竜と紫姫は顔を見合わせた。

その胸に去来する想いは微妙に違えど、どちらも訝しげである。

竜王たちからの懐妊の祝いは、すでにそれが巫女たちに告げられた日に届けられていた。
紅竜からも同様である。
勿論、直接祝いを述べたいというのはなんらおかしいことではなかったが、相手が紅竜となれば少々疑問も残る。

紫姫は桜姫の苦悩ゆえに、黒竜は紅竜自身の苦悩ゆえに、この訪問を訝しく思った。

紫姫は、黒竜のたった一人の巫女であるから、他の竜王が尋ねて来たら必ず彼女が応対に出る。
それは城の女主人としての当然の務めであった。
勿論紅竜もそれを承知している。

それを承知の上であえて紫姫に挨拶したいと告げるということは、目的が紫姫に会い、言葉を交わすことにあるということだ。

櫂もその意味がわかっているからこそこうしてそれを告げに来たのであろう。

「すぐに行く。やつの好みを覚えているな、櫂」
「勿論でございます」
「それを出してしばらく相手をしてやっていてくれ」
「御意」

櫂が一礼して扉を閉める。

それを見送って、黒竜は小さくため息をついた。

傍らの紫姫が、不安そうに彼を見上げる。
それを宥めるように微笑み、黒竜は自らも執務用の黒衣に着替えた。

「行こう」

黒竜に手をとられ部屋を出て行く紫姫の頬は、僅かに蒼褪めていた。

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