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紅竜の巫女

〜七章〜

「待たせたな、すまぬ」

部屋に入るなり謝った黒竜に、紅竜は僅かに苦笑してみせた。

黒竜が孤独であった長い年月の間、紅竜は彼の詫びの言葉など聞いたことがなかった。
これも、彼女のおかげかと、紅竜は黒竜の背後に立つ女に目をやる。

その彩は、やはり紅竜の心に鋭い痛みを引き起こした。
けれども、自分でもわかってはいるのだ。
紫姫は、彼女じゃない。
紫姫は、紅竜が愛した女によく似ていて、それでも彼女ではありえない存在であった。

「ようこそいらっしゃいました、紅竜様」

静かに微笑む女の、その髪は漆黒。
その髪に、瞳と同じ紫水晶の嵌った銀の簪が揺れている。

彼女にも、それと同じものを買ってやろうとした。
ただ一度、彼女が永遠の眠りにつく前にせめてと。
瞳と同じ紫水晶の簪がよかろうと告げた紅竜に、彼女は首を振ったのだ。
いただけるのならば、貴方の瞳と同じ紅い石の嵌った簪を、と。

彼女はそれを持って眠りに付いた。
髪から滑り落ちた簪もまた、主人と共に凍りつき、永遠の眠りに付いたままだ。

彼女が何を思って紅い簪をねだったのか、それがわからぬほど莫迦な男ではないつもりだ。
彼女のその想いに応えるには、自分もまた同じ重さの想いを彼女に与えねばならぬと、紅竜は知っていた。

そしてそれを、当然だと思っていたのだ。

そう、数百年前までは。

紅竜は痛みを堪えるように目を細め、そして誤魔化すように紫姫に笑いかける。

「懐妊したというのは本当のようだな」
「はい」
「我らの次代がやっとこの世に生れ落ちるのだな」

感慨深げに呟いて、紅竜は紫姫の腹部を見つめた。
竜王である紅竜には、その胎内にある力の塊がよく視える。

「おめでとう、紫姫。そして黒竜。苦難はあるだろうが我ら皆が支えよう。元気な子を産め」
「はい」

温かな紅竜の言葉に、紫姫が微笑んで頷く。

笑った顔は意外に彼女に似ていないことに気付いて、紅竜は知らず、息を吐いた。

いつまでも、過去にとらわれていては生きてゆけない。
次代が、生まれようというのに。

「これを。黒竜の城に懐妊の祝いに行くと言ったら桜姫に叱られてな。祝いに手ぶらで行くことがあるかと」

苦笑しながらそう言って紅竜が差し出したのは、小さな箱に入った揃いの三つの指輪だった。
少しずつ大きさとカットの違う紫水晶が嵌っている。

「桜姫が村にいた時代、子供が生まれると村の者たちはその子供と両親に同じ石をあしらった指輪を贈ったそうだ。両親の指輪の数がその家の子供の数だと」
「まあ。すでにお祝いの品はいただきましたのに」
「あれは俺から。これは桜姫からだ。もらってやってくれ」

やわらかな紅竜の言葉に、紫姫はそっと小箱を受け取った。
大きさの違う三つの指輪は、同じ銀と紫の煌きを放って紫姫の手の中に納まる。

「ありがとうございます。大切にいたします。桜姫様にもお礼をお伝えください」
「ああ、確かに伝えよう」

頷く紅竜の前で、紫姫は嬉しげに指輪に唇を寄せる。
薄紅色のそれが、そっと紫水晶に押し当てられた。
宝石を手に入れたらそれに口付けをするのが、人の世の慣わしだった。
ここに来たどの巫女も、宝石を贈られたときにはそうしていた。

桜姫も、糸宝も。

「紫姫、顔色があまりよくない。休んでいろ」

唐突に告げられた黒竜の言葉に、紫姫はきょとんとして夫を見上げ、そして小さく笑った。

「最近黒竜様は心配性になられましたの」
「それはそうだ。男にはこういう場合何も出来んからな。必要以上に気を揉むことしか出来ぬのだ」

紫姫のからかうような囁きに、紅竜は笑って応える。
そして、そっと紫姫の顔を覗き込んだ。

「確かにあまり顔色はよくないようだ。なんといっても竜の子だからな。人であるお前には負担が大きいだろう。呼び立てしてすまなかったな、ゆっくり休むが良い。何、俺の相手は心配性なその子の父親にしてもらうから」

からかい混じりの紅竜の言葉に、それでも紫姫はありがたく従って部屋を辞する。

彼女のいなくなった部屋で、黒竜と紅竜は向かい合って座した。

「やはり負担は大きいようだな」
「ああ。今からこれでは先が心配なのだがな」

紅竜の言葉に、黒竜が目を伏せて呟く。
彼自身のために、紫姫は一度その身を死の危険に晒している。
これ以上は、と思っているのだろう。

「いざとなれば紫姫の腹に我らで結界を張ればよい。今のお前の力があれば可能な術だ」

静かな紅竜の言葉に、黒竜は小さく頷いた。

その術は、黒竜の有していた文献にあった術だ。
それを知る者は、その文献の持ち主たる黒竜と、彼からそれを借り出したことのある紅竜のみ。
それを想い、黒竜は密やかにため息をつく。

桜姫が、彼女と紅竜と蒼竜しか知らぬと思っている秘密は、黒竜にもまた知られていた。
黒竜には水鏡がある。
勿論それをいつも使っているわけではないが、何か力の揺らぎがあれば、それはひとりでにその源を映し出すのだ。

だから彼は桜姫が凄まじい苦痛の果てに、人でないものを産み落としたときも、それですべてを視ていたのである。

その時ただ一度きり、黒竜は紅竜を殴った。
黒竜が文献を弟に貸したのは、そんなことをさせるためではなかった。
弟の狂気に気付けなかった自分を責め、その狂気によって桜姫を絶望に追いやった弟を責めた。

黒竜が紅竜に手を上げたのは、後にも先にもそれ一度きりであった。

黒竜は自ら蒼竜を呼び寄せ、彼に桜姫を癒すよう命じた。
そしてこのことは桜姫のためにも口外しないよう、厳しく告げたのであった。

桜姫を癒した蒼竜の存在が、彼女自身から隠せはしないことはわかっていた。
だからせめてもと、自分が事の次第を知っていることは、隠し通したのだ。

それゆえに、今でも桜姫は、あの事件は自分と紅竜と蒼竜しか知らぬと思っている。
蒼竜も、詳しいことは知らないだろうと思っているようであった。

確かに、普通は思いつきもしないであろう。
竜王たる紅竜が、狂気に突き動かされ怪しげな人間の伝承に頼ろうとするなど。

だが実際紅竜はそれを行い、その罪は今も彼の中に在った。

「それで、用件はなんだ」

静かな黒竜の言葉に、紅竜は僅かに俯いた。

懐妊の祝いなど、ただの口実だと、気付かぬ黒竜ではない。
紅竜もまた、兄にそれがわかっていると知っていた。

「桜姫の、ことか」

黙りこくった弟に、黒竜のやわらかい声がかかる。
紅竜は、それに小さく頷いた。

「紫姫が、気にしていた。どうやら先日の巫女たちの集まりで虹糸あたりから糸宝のことを聞いたらしい」
「そうか。あの日、いつもよりもずっと早く桜姫が城に戻ったと焔から聞いていたから、何かあったんだろうとは思っていたんだがな」

紅竜の言葉に、黒竜はため息をつく。

「誰よりも子供を欲しがっていた桜姫だ。紫姫の懐妊の話は彼女には酷だったろう。すまなかったな」
「いや。それはすべて俺の責任だからな。巫女たちに知らせないで済む話でもない」

俯いたまま呟いて、紅竜は音がしそうなほどにきつく拳を握りこむ。

「俺は、桜姫が俺を愛しているのを知っている。そして、桜姫が、俺は糸宝しか愛していないと思い込んでいるのも」
「当然だな。お前が彼女にあの日そう言い放ったのだ」

静かに言い放ち、黒竜は遠い昔、桜姫がこの水底に嫁してきた日のことを思い出す。

初対面で、最初から大喧嘩をした二人。
見るからに力が不安定な紅竜と、そんな彼に嫁すと言ってきかない桜姫。
糸宝だけが唯一の巫女だと怒鳴る紅竜と、そんな個人的な感情で村を危険に晒すのかと叫ぶ桜姫。

結局桜姫の正論に紅竜が根負けして、それでも最後に捨て台詞みたいに言い放った言葉を、黒竜も、紅竜自身もよく覚えていた。

『お前が「紅竜の巫女」になりたいのなら勝手になればいい! だが「俺」は決してお前を妻として認めない。俺の妻は、俺の巫女は、糸宝一人きりだ。他には誰も愛さない!』

紅竜は怒りに任せて見ていなかったけれども、黒竜はその時の桜姫の傷ついた瞳の色もよく覚えていた。

永く共に暮らすうちに、二人はそれなりに仲良くなって、やがて力の交歓の必要がなくても紅竜が桜姫を抱くようになって。
それに安堵した頃にあの事件が起きた。

あの時紅竜を殴った手の痛みも、まだ鮮明に記憶に残っている。

「お前は司る力の性質ゆえか、兄弟の中でも感情が激しすぎる。どんな感情であっても激しすぎて、その所為で桜姫もお前自身も苦しんでいるように私には見える」

黒竜の言葉に、紅竜は頷く。

自分でもわかっていた。
激しすぎる感情が糸宝を永遠の眠りにおいやり、桜姫を心身ともに壊したのだ。

「俺は怖いんだ。このままだと俺はまたいつか桜姫を壊してしまうかもしれない。今度は蒼竜でも癒せないほど粉々に」

絞り出した声は掠れていた。

「桜姫に愛していると告げるのは簡単だ。でも、それを告げてしまったら、きっと俺は際限なくあいつに溺れる。あいつを粉々に壊すまであいつを愛してしまう。そして桜姫も、糸宝みたいになるんだ」

比喩でなくそれだけの力を持っているがゆえに、黒竜は安易にその言葉を否定できなかった。

「あいつは俺に愛されることを望んでる。でもあいつは俺に愛されるってことがどういうことかわかってないんだ。俺が糸宝を愛したがゆえに桜姫は壊された。桜姫を壊してもいいと思うくらいの糸宝への執着が、今度は桜姫自身に向けられるんだって、あいつは気付いちゃいない」

今は、桜姫が自分は紅竜に愛されていないと思い込んでいるがゆえに、僅かに引いた立場で過ごせている。
だが、これでその枷がなくなったらどうなるのか、紅竜自身にもわからなかった。

「今でさえあいつを抱いているときは我を忘れている。酒が必要なのは俺の方なんだ」

苦しげに呟いて、紅竜は黙ったまま聞いている兄を見上げた。

「お前には唯一愛する紫姫がいて、お前は彼女を優しく守ってやれる。蒼竜は、俺と正反対で、咲姫も姫水も優しく愛してやれる。緑竜には伽糸がいて、あいつは未熟だけど、でもあいつらを助けてやれる虹糸と糸緒がいる。白竜は誰も愛さないけれど、瑠糸と姫妃は互いがいる。でも、桜姫には眠ったままの糸宝と、愛する者を壊してしまう俺しかいない」

そっと、黒竜の手が紅竜の肩に乗せられる。
破壊の力を持つ黒竜だからこそ、その恐怖が理解できた。

実際、それゆえに黒竜は巫女を娶らなかったのだから。

「……いずれ俺が壊してしまうならいっそ、彼女と糸宝を解放してやりたいんだ」

独り言のようなその言葉に、黒竜は目を見開く。

糸宝を解放することはすなわち彼女の死を意味する。
そして糸宝の存在が消えれば、巫女としては桜姫の存在も必要なくなるのだ。

五竜の力が安定し、次代が宿った今、紅竜に巫女は必要ない。
感情をすべて無視すれば、それは真実だった。

今なら、桜姫をヒトの世界に戻すことが出来る。

神格に近づいてしまった巫女でも、今の黒竜の力があれば巫女の身体をヒトのそれに戻すことは可能なのだ。

「本気なのか」

部屋に落ちた黒竜の囁きも、奇妙に掠れていた。

六章   八章

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