蒼竜の巫女

〜十章〜

数日後。
姫水は、咲姫の部屋の前にいた。

百年を越すここでの生活の間、
考えもしなかったことを、
深く深く考えて、
彼女は今ここにいた。

咲姫をもし、怒らせてしまったら、
この、蒼竜の城の均衡が崩れることになる。

ここは、すでに蒼竜と咲姫の力が組み込まれていて、
もし、彼女がその力を放棄したら大変なことになるのだ。

実際、蒼竜や咲姫の体調によって、
この城の空気の重さまで変わってしまうこともある。

だが、それでも、姫水は咲姫の元に行かずにはいられなかった。

コン、と扉を叩くと、
しばらく後に扉がゆっくりと開いた。

開いた扉の向こうには凛とした佇まいで立ち尽くす咲姫。

まるで姫水が来ることがわかっていたかのようなその表情に、
思わず息を呑む。

「突然申し訳ありません、咲姫様。」

震える声でそう告げると、
ふっと小さく笑われた。

「突然というわけでもないがな。
入れ。」

通された先の咲姫の部屋は、
ふわりと甘い香が焚き染められ、
姫水はその薫りにふと目を伏せた。

この薫りはよく知っている薫り。

時折流藍から漂ってくる薫りだ。

咲姫は、竜王としての流藍の仕事も補佐しているから、
移り香くらい不思議ではない。

必要ならば二人で執務室に篭っていることもあるし、
今、見れば、彼女の背後の豪奢な文机には、
大量の書類が積み上げられていた。

途端に、恥ずかしくなる。

咲姫が巫女として仕事をこなしている時に、
自分はくだらない嫉妬でこんなところまで来ているのだ。

「あの、やっぱりお忙しいみたいですし、私・・・。」
「別に緊急の仕事ではないから構わぬ。
妾に個人的に話があるのだろう?」

何もかも見透かしたような瞳で、
そう告げた咲姫は、
無言で姫水を寝台に座らせた。

きしり、という音と共に、
隣に腰をおろしたのは、
身体も幼い自分とは違って、
成熟した女性のもの。

自分の愚かさと無知さが、
今更ながらに嫌になって、
ただ目を伏せる。

「流藍様を、愛していないと言ったとて、
そなたは信じはしないのだろうな。」

ぽつりと呟かれた言葉に、
びくりと震える。

それに苦笑して、咲姫はふと虚空を見つめた。

姫水がこの城にはじめてやって来た日のことを、
咲姫はよく覚えていた。

十五で湖に入った巫女は、
初めてだった。

一目見て、力は弱いのだとわかった。

確かに巫女姫の血は引いていたが、
巫女として竜王の元に嫁すには、
あまりに脆弱な娘。

十五にしても幼く華奢なその身体に、
同情さえした。

そして、その弱さゆえに、
流藍の元に彼女が来ることになったのだろうとも思った。

五竜の中で一番穏やかな流藍は、
必然、兄弟たちの間でも宥め役になることが多い。

結果、貧乏くじを引くことになることも、
咲姫はよく知っていた。

けれど、そのおかげで、
自分の我侭が通ったことも承知していたから、
そんな彼の性質を、愛しく思いこそすれ、
嫌だとは思わなかった。

もしも他の竜王に嫁いでいたら、
こんな我侭は通らなかっただろう。

姫水についても、
何の力もない幼い少女を、
結果的に押し付けられたのだろうと思っていた。

執務室で、彼から彼女の話を聞くまでは。

姫水のことを話す彼を見て、
自分が思い違いをしていたことを知った。
彼は、姫水を愛しているのだ。
一人の人間として。

それに気付いた時、
複雑な気分になった。

自分は、恋人として、夫として、流藍を愛してはいないし、
これからも愛することはないだろう。

けれど、誰よりも彼の幸せを願ってはいる。
それは、彼こそが、今の咲姫の幸せを守ってくれた相手だったから。

だからこそ、姫水でいいのか、
咲姫は迷ったのだ。

彼女の目には、
姫水はただ幼いだけの臆病な少女に見えたから。

「そなたがいくら信じなくとも、
流藍様が妾を、
そして、妾が流藍様を愛していないというのは事実なのだ。
・・・否、愛してはいる。
家族のように、幸せになって欲しいとは思う。
それでも、自分が幸せにしようとは思っていない。」

きっぱりと告げた言葉に、
姫水の瞳が揺れる。

こうしてまじまじと見ると、
やはり何処か、彼女は自分にも似ていた。

当然だろう。

血筋で言えば、彼女も自分と同じ血を引いているのだ。

「妾がただ一人愛したヒトのことを聞いたか?」
「はい。黒竜様に・・・。」
「そなたに、昔話をしてやろう。」
「昔話?」

ふと首を傾げた姫水の、
やわらかな髪を指先で掬い上げる。

咲姫が、彼と出合ったのも、
丁度彼女の年くらいのことだった。

今ではもう、顔さえ思い出せない彼に出会った、
遥か昔の出来事。

それでも想いだけは決して消えない。
消すつもりもない。

生涯愛すと、誓ったのは彼一人だったから。

「妾は、確かに巫女姫の血筋であったが、
その当時、村には妾よりも巫女姫に近い血筋の娘が三人もいたのだ。
その三人は生まれたときから、
五竜に捧げられる巫女として育てられていたが、
妾には関わりのないことだった。
妾にはすでに結婚を約束した相手がおり、
年も二十歳を過ぎていた。
巫女は、力の一番強い十代の娘から選ばれる。
そのままいけば、その三人の娘たちの誰かが、
湖に捧げられるはずだった。」

遠い目をして語る咲姫に、
姫水は無言で頷く。

捧げられるのは大抵十六から十九までの娘だ。
十七、八くらいが一番力が強いのだということも知っている。
十五で姫水が湖に入ったのが、
特別だったことも。

「だが、百年目に、村を流行り病が襲い、
三人の娘は次々に病に倒れた。
妾の婚儀の三日前に、
最後の娘が死んだ。
彼女ら以外に巫女姫の血筋は、
妾か、五歳になったばかりの少女しかいなかったのだ。」
「それで咲姫様が・・・?」
「そうだ。
彼は、逃げようと言った。
あの村から離れ、違う村で暮らそうと。
だが、そんな考えは村の人々にすぐ知れて・・・、
妾と彼は別々に監禁された。
幾度も逃げ出そうとした。
それが無理とわかって、死のうとした。
そのくらいの意志は貫きたかった。
だが、結局妾は村の人間たちによって湖に投げ込まれ、
気付けば目の前に白竜様がいた。」

今でも、まざまざと思い出せる、
憎しみと嘆き。

死ぬとばかり思っていた自分は、
湖の底で竜王に出会い、
そして、嘆いた。

いっそ死んでしまえば苦しくはなかった。
生きていて、この胸に彼への想いがあるのに、
どうにも出来ないことが、
違う刻の流れを生きなければならないのが辛かった。

「すぐに妾は流藍様の城、この城に連れて来られ、
彼の巫女になることになった。」
「咲姫様の時は嫁する相手を選べなかったと・・・。」
「そうだ。そなたたちのように、
自由に巫女自ら嫁する先を選べるようになったのは、
六人目の巫女、白竜様の妻、瑠糸からだ。
あの頃は、その時期に力の不安定な竜王に嫁することが決まっていた。
妾の前の巫女が、紅竜様に嫁ぎ、
暴走しかけていた紅竜様の力を治めたために、
対となる流藍様に巫女が必要となった。
それで妾は彼に嫁することになったのだ。
そして、妾は流藍様に条件を出したのだ。

百年に一度の契りは行う。
それはひいては彼の住む、村を守るため。

竜王の巫女としての補佐も行う。
それは捧げられた巫女としての務め。

けれど、妻となることだけは、
竜王の、心を支えることだけは出来ぬと。

流藍様は、それでもいいと言った。

殺されてもおかしくはない、
竜王の逆鱗に触れてもおかしくはない、
一方的な我侭だった。

今思えばな。

だが、流藍様は妾の条件をすべて呑んでくれた。
妾が、彼を愛し続けることを許してくれた。
だから、妾は流藍様に感謝している。
愛せないけれど、誰より幸せになって欲しいと思っている。
だから、彼がそなたを愛しているのだと知った時、
妾は彼をけしかけ、
妾は必要以上に部屋から出ないことにした。
だがそれは、流藍様のためでも、
そなたのためでもない。
ただ、妾が自分の意志でしたいと思ったことだからしたのだ。」

厳しい言葉で、それでも優しい瞳でそう言いきった咲姫に、
姫水は俯く。

「莫迦げていると思うか?
もうこの世の何処にもいない男を想い続けている妾のことを。
村には、彼の遥か遠い血筋しか生きてはおらぬというのに。」

ふわりと、首を傾げて尋ねた咲姫に、
姫水は激しく首を振る。

「いいえ、いいえ!
莫迦げているだなんて思いません。

例え触れ合えなくても、
その存在が消えてしまっても、
想いは消えません。

でも、だから、だからこそ苦しいんです、哀しいんです。

同情してるんじゃない、
優越感に浸ってるわけじゃない、
ただ、哀しくて苦しい。」

「独り、この世におらぬ男を想う妾の隣で、
流藍様を愛し、愛されることが?」

涙混じりに叫んだ姫水に、
穏やかに問い掛ける声。

「それもあります。
いえ、それよりも醜いことを考えています。
それだけの永い間、
咲姫様を見てきた流藍様は、
やはり貴女を愛しているのではないかと。

そんな風に思ってしまう自分が情けなくてたまらない!」

吐き出すようにそう告げた姫水に、
咲姫は苦笑した。

幼くして刻を止めたが故に、
弱くて無垢な、優しい少女。

「莫迦な娘だ、そなたは。
そんなこと気にしなくともよいのに。」
「だって・・・!」
「妾はこれで幸せなのだよ。
この想いを抱いている限り、
妾は巫女として誇りを持ってこの世界で生きてゆける。
だが、そうだな。
そなたが流藍様とのことをそんなに気にするのならば・・・。
よいことを教えてやろう。」
「え?」

見上げてきた拍子に零れ落ちた大粒の涙を、
そっと爪先で拭う。

あのまま、彼と結ばれて、
村で暮らしていたのなら、
こんな風に可愛らしい娘を持つこともあったのだろうか?

それは、甘くて残酷で、それでも少しだけ幸せな夢。

「そなたと妾は半人前の巫女なのだ。
妾は流藍様の心を補うことは出来ぬ。
だが、そのかわりに力を補う。
そなたは流藍様の力を補うことは出来ぬ。
だが、そのかわりに心を補う。
それで一人前。
互いに補い合って、
妾とそなたは二人揃って蒼竜の巫女なのだ。
それでは駄目か?」

優しい優しい声。

百年以上も共にこの城で暮らしていたのに、
こんな風に話したことはなかった。

こんなにも暖かく、甘いひとなのに。

きっと、咲姫には絶対に敵わない。

姫水は思う。
でもそれでいいのだ。

咲姫の心は、
かつて愛して、今も変わらず愛している、
ただ一人の相手のもの。
だから、流藍の心だけは、姫水が補うのだ。
巫女としての務め。

竜王の力と心を補うこと。

どちらが欠けても完全ではない。
でも、姫水と咲姫、二人で補えるのなら、
それはきっと、とてもとても幸せなことなのだ。

「妾は流藍様を家族として愛している。
そして、そなたのことも。」
「私もです。私も、流藍様と咲姫様を愛しています。」

涙ながらに叫んで、
姫水は咲姫の腕の中に顔を埋める。

甘い香の薫りが、
姫水の身体にも移ってゆく。

それを、泣きたいくらいに幸せに感じた。


九章     終章



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